NO.38 愛地球博によせて
2005.03.29


3月24日木曜日、愛・地球博の開会式に出席してまいりました。

 今回の愛知万国博覧会は、約10年前、私が当時所属をしておりました通商産業省商務流通グループが中心となって熾烈な招致合戦を制したということや、その後の基本構想づくりで情報社会論の専門の立場からお手伝いしたというご縁もあって、また、今回の霞ヶ関側の担当室長も、現地の博覧会事務局の現場のチーフも、私の通産省入省同期生が務めているということもあり、無事、開催にこぎつけて本当に嬉しく思っております。

 会場では、この開催に向けこれまで尽力してこられた多くの先輩方にも久しぶりにお会いいたしました。これだけの事業になると実に多くの皆さんのお陰で今日を迎えているんだなあということを改めて痛感いたしました。最初は小さな灯を、松明に移し、それをとぎれることなくリレーし、広げていく、そして、その灯がゴールに達したとき、後輩は先輩に、先輩は後輩に、素直に感謝しながら、共に、その成功をよろこびあう。その幸せを久しぶりに感じることができました。とかく個人の能力が強調される時代になりましたが、一人では決してできない、世代を超えて、立場を超えて、人々が連帯し、協力・協働することのすばらしさを我々に教えてくれるこうしたプロジェクトの大切さを改めて感じた次第です。

 開会式は、本当にすばらしいものでした。演説によって、ここまで胸が熱くなったのは、久しぶりのことでございました。呉建民博覧会事務局議長の、21世紀に入り、万博の担い手として、欧米に加え、アジア諸国が中心的な存在になってきたことを喜び合い、今後は、世界の平和、正義、公正のために、アフリカやイスラム世界が、諸国民の祭典である万博の担い手になっていくことを世界共通の目標としていこうという呼びかけや、ノーベル平和賞受賞者のマーティさんの、自然の叡智を讃えるメッセージには、本当に心動かされました。

 そして、何よりも、感激いたしましたのは、天皇陛下のお言葉でございました。まさしく陛下ご自身のお気持ちがひしひしと伝わってまいる、すばらしいお言葉でございました。万博と近代日本建国の歩みとの密接な関わりを、具体的に、詳しく、お示しになられながら、21世紀初頭のこの時期に、我が国が、大阪に続いて再度、万博を開催する意義と意味を明確に我々にお示しくださいました。
すなわち、人類の活動が自然に及ぼす影響に対する人々の関心が高まり、そして、地球温暖化や砂漠化の防止、自然災害への対応など、人類が直面している諸課題への対処が不可欠となっている今、人類と自然の関わりについて世界の人々の理解を一層深め、世界中が手を携えて地球の環境を良好に保つよう努力する契機に(この万博が)なるならば誠に喜ばしいとのお言葉を賜りました。
私達は、まさに陛下のおっしゃられたこのことにこそ邁進しなければならない。と感じ入った次第でございます。これぞ国政に携わるものの使命であると、私たちをお諭しくださっているようにも拝聴いたしました。我々は、高邁な理想に向かって、全身全霊を捧げ、全力を尽くしきっているだろうか?と、永田町の日常に流されつつある日頃の我が身を改めて、恥じ入った次第です。

 永田町では、平成17年度の予算案が、3月23日の夜、参議院本会議場で可決されました。その夜、マスコミは戦後四番目に早い可決と一斉に報じました。この日で可決した本当の理由は、万博の開会式に間に合わせるためでした。もちろん、万博などはおかまいなく、とことんやるべきだとの意見もあろうかとは思いますが、予算を可決させて、三十五年ぶりの世界の祭典を気持ちよく迎えようという執行部の判断は、支持したいと思います。

 永田町にいて、もっとも改めたいのは、この日程政治です。たとえば、予算でいえば、年度内に可決したら与党の勝ち、4月1日をまたげば野党の勝ちといった具合です。しかし、この数日の差にいったいの何の意味があるというのでしょうか?委員会の現場の担当理事のご苦労は本当に大変ですし、心からお疲れ様と申し上げたい気持ちは山々ですが、国会での、日程ゲームの勝ち負けは、国民の皆様の実生活にとっては、さしたる意味はありません。大事なのは予算案の中味です。高邁な理想の実現に向けて、その具体的に方法論を巡って議論を戦わせたいと思います。
日本の国会を日程ゲームに陥れているもの、それは、予算案、法案の修正がほとんどなされないという異常な実態が五十年間続いてきたことにあります。他国では、法案大綱的なものが提出され、国会論戦を通じて中味がどんどん進化していきます。「いい議論をすれば、よりよい中味になる。よりよい中味にするために、いい議論を重ねる。」との世界の常識が、日本の国会では通用しないのです。私自身、3月10日には、予算委員会で、「コンクリートから人づくりへ」予算編成方針を変えていこうという提案を直接小泉総理にさせていただきましたが、こうした考えを、論戦を通じて、予算案修正にまでこぎつけさせるのはほとんど不可能です。
中味に関わる論戦をしても仕上がった法案に何の影響も与えないので、報道もほとんど取り上げません。一方、数分間でも審議中断して、国会が不正常になると、一斉にマスコミ各社は報道を始めます。そんな姿ばかりを見せられた国民の皆さんの政治不信は増大します。しかも、皮肉なことに、全く法案修正がなされない国会のまま、マニフェスト選挙が浸透すればするほど、政策づくりの主戦場も選挙ということになり、本来の政策づくりの場である国会の意義がますます低下し、論戦が低調化し、国民の失望は高まります。もちろん、マニフェスト選挙は、利権を誘導できる人を選ぶ選挙から、政策を選ぶ選挙にしていく意味で非常に重要ですが、まさに、悪循環です。別にマスコミ批判をしたいわけではありません。審議が中断して、審議が遅れれば、それが積もり積もって会期末には重要法案が一本廃案になるかもしれない、そうすれば、国民生活に少なからぬ影響があるから、記者も内容より日程のことが気になるのです。当然のことといえます。結局は、修正問題にぶちあたるのです。
以前に比べ、霞ヶ関から提出される予算案、法案の出来が悪くなってきました。技術的な不備や内容の稚拙さが目立つようになってきました。(こんなところにも、霞ヶ関の衰えが見て取れ、実際の法案策定に従事する若手官僚の皆さんにはしっかりと研鑽してもらいたいと思いますが・・・)こうした観点からも修正の必要性は以前にも増して相当に高まっています。現に、議論を重ねるなかで与党の議員ですら、内々には、修正をしたほうがいいねと否を認める法案は結構あります。しかし、修正問題の改善は全く図れておりません。なぜでしょうか?ただし、例外があります。法務省民事局が提出する法案に限り、議論の途中で合理的修正がなされること時々があります。法務省民事局といえば、霞ヶ関でもっとも法律能力の高い集団であるのにもかかわらず、一番、修正が多いという興味深い現象が起きています。その理由はなぜでしょか?法務省民事局長は、裁判官からの出向者が就任しているからです。(それはそれで三権分立の観点からは多少問題ですが・・・)民事局長が終わると、また、どこかの裁判官として栄転していきますから、よりよい修正が出世になんら足枷にならないのですが、他の官庁はそうはいきません。提出法案が修正されようものなら、担当者は大目玉です。役人や与党理事の面子から、国民のために重要な修正がなされなくなっているのです。

 今、憲法改正議論が盛り上がっていますが、本末転倒になってしまったゲームのルールを変える、面子政治をなくすための憲法改正にすべきだと思っています。より国民の皆さんにとって望ましい法律修正に貢献した議員や政党や役人がきちんと評価される制度を創り上げていくことが、官僚主権を脱し真の国民主権を確立することに資することになります。このことが、憲法改正の真の意味だということを多くの皆様にご理解いただきたいと存じます。

 予算委員会には、3月10日に小泉総理と、3月15日にも教育問題の公聴会で、杉並区立和田中学校の藤原和博校長と、教育問題に絞って議論をさせていただきました。特に、10日の模様は、NHK総合テレビで放映されたこともあって、かなりの反響がありました。理想を捨てず、しっかりした議論をしていけば、こんなにも多くの方々に激励していただけるのかと正直びっくりいたしました。こうした心ある皆さんがいる限り、私も、永田町の常識に逆らって、高邁な理想を追い求めていけると、心から感謝した次第です。

 万博の開会式に出席する機会を得て、改めて、世界の人々が理解し、世界の人々が手を携えあっていく社会建設の理想に向かって、がんばっていかねばとの決意を強くした次第です。国会、後半戦もがんばります。倍旧のご支援・ご指導をお願い申し上げます。