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 文教科学委員会 参考人意見陳述

2001年11月27日 

○委員長(橋本聖子君) 
 教育、文化、スポーツ、学術及び科学技術に関する調査のうち、学力低下問題に関する件を議題といたします。
 本日は、本件の調査のため、参考人として株式会社オージス総研代表取締役会長・社団法人大阪工業会産業政策委員長下谷昌久君、新しい社会科「よのなか」科提唱者藤原和博君、東京大学大学院教育学研究科長藤田英典君及び大東文化大学教授村山士郎君の四名の方々に御出席をいただいております。
 それでは、まず下谷参考人から御意見をお述べいただきます。下谷参考人。 《一部略》

○参考人(下谷昌久君) 
 下谷でございます。では、座ってしゃべらせていただきます。
 本日は、このような機会を与えていただきまして心から感謝をしております。どうもありがとうございます。
 大阪工業会は一九一四年に設立された団体でございまして、物づくり、製造業を中心といたしまして、さらに広く流通それから金融、情報、そういう会員で約千三百社で今現在構成されております。
 その大阪工業会では、昨年の六月に「モノづくりのためのヒトづくり」という提言をいたしました。提言そのものはここでは御説明いたしませんけれども、お手元へお配りしております黄色いのでございます。御説明いたしませんが、後ほどまた御一読いただければ幸いでございます。
 この提言をつくるに当たりまして、今からいいますと三年半ばかり前から二年ぐらいかかって検討してきました。工業会の中での議論、検討に加えまして、企業の現場の方のお話、それから教育現場の先生方、学校の先生方のお話をヒアリングといいますか、これをしましてまとめたものであります。
 ただし、もともと我々は教育問題をテーマにして議論したわけではございません。もっと広い範囲で「モノづくりのためのヒトづくり」ということで議論を開始したんですけれども、検討しております間に教育問題、特に理数科の学力低下問題というのは避けて通れないということがわかってまいりました。ということで提言したわけです。
 しかし、私たちは、提言するだけじゃなくて我々が具体的に行動しようということでいろいろやっておるわけですが、その一つとしまして昨年の十一月にシンポジウムをやりました。日本の理数科教育を考えるシンポジウムというのを開催いたしまして、産業界、教育界、それからマスコミの方もお寄りいただいて開催をいたしました。それが去年の十一月でございますけれども、その後また続けまして、工業会の内外で検討をしました。また、教育界との対話も続けました。一方、この問題に対する、学力低下、理数科に対する世の中の関心も高まってまいりました。
 そこで、我々は、産業界としての活動の輪をさらに広げようということでまたシンポジウムをやりました。実はきのうなんですけれども、テーマは「モノづくりのためのヒトづくり」、そして産業界はどう行動するかということで、昨日、大阪で開催したわけです。産業界から六名、教育界から五名のパネリストに出ていただいてやりました。私はコーディネーターをやりましたので、現場からの生の声といいますか、生の危機感というものをお聞きしたわけです。きょうは、もし後ほど御下問ありましたら幾つかを御紹介したいというふうに思っております。
 さて、きょういただいておりますテーマは二つございまして、一つは、経済界、産業界として学力低下問題をどう認識しているかというのが最初のテーマであります。
 時間が限られておりますので要約して申し上げますと、まず我々の認識としては、結論として学力は低下している、そういうことであります。これは、ただし物づくり、製造業の立場からでありますので、どうしても問題は理数科に絞られてまいります。そういうことで御説明を差し上げたいと思いますが、では資料で御説明を申し上げます。(OHP映写)
 これは、工業会の中で会員の経営者にアンケートした結果であります。それで、これは去年の九月にやっておりまして、入社一年目から三年目の社員について経営者に聞きました。この経営者は二つに分けてありまして、千人以上の大企業と三百人以下の中小企業、データそのものは真ん中に中堅企業があるんですけれども、ここでは中小企業。これは今さら申すまでもないんですけれども、日本の製造業、物づくりの強さというのは中小企業から発しているものが大変多うございます、技術の面、技能の面で。ですから、中小企業で何が起きているかというのは私たちは非常に重要だと思っています。
 それで、経営者に業務能力の現状について聞いております。その答えとして、技能、技術や業務能力が不十分だと答えた人はこれだけあります。何が不十分かというと、技能、技術にかかわる基礎知識が不十分である、そしてもう一つ、後で申し上げますが、論理的な思考力、これが不十分である、それから観察力、分析力が不十分であると。こういう不十分さというのは五年前、十年前の新入社員と比べてどうかといいますと、それに比べて低下していると。何で低下しておるのかという原因を聞きますと、一番多いのは理数系科目の学力低下によると、こういうことであります。
 それから、これはそのアンケートとはまた別のアンケートでございますけれども、こういう状況に対してここ三年で新入社員に対する企業内研修を強化しているかと、こういうことを調査いたしました。これもやっぱり三百人未満と千人以上、こう分けておりますが、強化しているというところは非常に多うございます。なぜ強化したのかというと、一番多いのは、理数系学力が低下しているからだと。技能、技術にかかわる業務能力の低下、これが一番多い。それ以外に、社会人としての素養とかマナーだとかというのもありますけれども、これが一番多い、そういうことであります。
 ということで、私たちは基礎学力は低下しているというふうに思うわけでありますけれども、もう一つ重要な能力低下というのが見られると思っております。これは何かと申しますと、論理的思考力の低下であります。
 この論理的思考力というのは基礎学力の低下というのと非常に密接に関連をしています。論理的思考力とは難しいんですけれども、簡単に言いますと考える力であります、自分で考える力。これは、自分で問題を発見してそれを分析してそれの解決方法を考える、それから自分の考えを書いてあるいは言うて、それを人に対してコミュニケーションできる力と。実はこの力というのはこれからの企業にとって大変重要な力になる。企業はもうマニュアルのない世界へ入っております。こういう不確定な世界でいろんな応用問題の答えを解いていかないけません。そうでないと企業は生き残れない。そのときに従業員に求める力というのはこれであります。
 ところが、これと基礎学力の低下とはどうなのかと申しますと、大変密接に関連しております。特に、理数科の物の考え方というのがこれと関連しているということであります。このことは我々産業界だけが言うているんじゃなくて、これはごらんになったかもしれません、読売新聞さんが先月出されたアンケート結果であります。全国六百七十大学の学長先生に聞いております。
 みずからの大学の学生の学力は低下しているかというのに対して、答えは、かなり低下、やや低下と答えられた学長さんが全体の八二%おられるんです。その八二%の学長さんに、学力低下とは具体的には何がいかぬのですかと。そうすると、何かの問題の答えが出ないとかいうんじゃなくて、実は一番多いのは、一つは、積極的に課題を見つけ解決しようとする意欲が乏しい。それから、物事を論理的に考え表現する能力が低い。読解力や記述力などの日本語の能力が低いと。こういうところが実は基礎学力の低下なんだというふうに学長先生もおっしゃっておられる。私たち産業界もそういうふうに考えております。
 これは先ほどのアンケートへ自由意見を聞きまして、一番多いのは、学力低下している。教育にゆとりは必要だけれども、一律に理数系科目の授業時間を削減していくというのは技術水準の低下に結びつくと心配する意見。二番目に、それが出てまいります論理的思考力、応用力、創造力、分析力、こういう力が弱い。なぜかというと、受験テクニックの習得に力が入っているので考えることは苦手な社員というのがふえている。それから三番目は、積極性、自主性、向上心が低下している。よく言われます上司の指示待ち族ということで、何か上司に言うてもらわぬとできない、あるいはマニュアルがないとできない、そういう社員がふえておりまして、それはやっぱりバックボーンになる基礎力というのが低いからじゃないか、こういうことであります。
 これは別のアンケートで、日経さんのされましたアンケートでありますけれども、社長、頭取ですから大きな会社の社長さんに聞いているわけですけれども、日本の教育が抱える問題で最も深刻な点はと聞きますと、基礎能力が低下したというのもあるんですけれども、一番圧倒的に多いのは、問題発見・解決能力の不足というのが五六%です。そして、このまま進むと業務に支障が出るというふうに答えておられる社長さんが五〇%ということであります。
 ということでありますので、さっき申し上げましたように、基礎学力の低下というのは、もちろん基礎ですからそれがないといかぬのですけれども、その上に構築されるといいますか、非常に関係のある、自分の頭で考える力というものが弱ってきている。
 この二つのことに対して企業はどうしているんだといいますと、このままではどないもなりませんので競争に負けてしまう。それも、国内の競争もさることながら、国際的競争に負けます。それではいかぬということで、自衛のための策を講じております。
 一つは、仕事を通じて徹底的に鍛え上げる、OJTですね。二番目は、先ほど申しました、社内で研修をする。三番目は、採用してから、あるいはそれを処遇するときに技術力が上がっていくような処遇をする、取り扱いをすると、こういうようなこと。
 さらにもう一つは、採用の工夫というのを始めております。これには少し問題があると思うんですけれども、大きな問題があると思いますが、日本人の新卒学生を定期に採用する、四月一日に採用するというのをやめて、ほかの手で採用しようという方へ既に動いております。例えば、日本人はやめて外国人、あるいは中途採用する、人材派遣のところからする。
 このことは、今までの日本の社会を形成していました、学校から産業へと、全部が産業じゃないんですけれども、大きな流れがそうでなくなってくるというのは、一つ我々としては危機感を持っていることであります。日本としても何だか変なことが起きているんじゃないかと。
 それから、時間がございません、申しわけございません、もう一ついただいているテーマは、産業界として学校に望むことというテーマであります。
 教育の中軸というのは、もちろん学校でありまして、先生でありますけれども、人づくりとなると、これは社会全体の責任であろうというふうに思います。ですから、我々産業界、企業も、せねばならぬことという責任もありますし、それでなすべきことは多いわけです。それから家庭も、家庭教育ということで何をせないかぬかという問題はあります。
 ということでありまして、この人づくりということについて、学校、先生を何か責めるというつもりは毛頭ありませんのですけれども、そういう中で、学校に何を望むかと言われましたので申し上げますと、まず小学校、中学校では、やはり基礎をかっちり固めていただくことだと思います。必要な時期に必要なことをきっちり教え込んでいただくということが必要です。そこのところが揺らいでいると思います。それから知的好奇心ですね、勉強の楽しさというのをはぐくんでいただきたい。
 それから、ゆとり教育でございますが、ゆとり教育というのは、御存じのことでございますけれども、特に理数科については、ゆとり教育ということでこの十数年来、時間がどんどん減ってきているわけです。しかし、諸外国はというと、実は知の大競争というのが始まっておりまして、諸外国では、欧米それから東南アジア、科学教育、理数科教育というのを国家戦略として非常に推進しているわけですね。
 こういうことで状況が非常に変わっておりますので、私はゆとり教育が全部悪いとは申しませんけれども、ゆとり教育を二十年近くやってきてどうなのか、どうだったのか、ねらっていたところと結果とはどないなっておるのかという辺のところを一度立ちどまって総括してみる必要があると思うんですね。それからもう一度方向を決め直すべきであって、その総括をしないうちに、来年から新しい指導要領が出ますから、それでまた理数科が減ります。そういうことへ行ってしまうということには大変な危機感を持っております。
 その次に高校でございます。
 高校は過度の絞り込みと。これは後で申します。大学入試と関係あるんですけれども、大学入試に必要なことしか教えない、しか習わないという傾向、全部がそうじゃないですけれども、そういうことで絞り込んでいくという傾向がありまして、知識の幅が非常に狭くなってきている、これは問題であると。ここを何とか是正する必要があると思います。
 それからもう一つですけれども、高校と、中学もそうですけれども、この高卒、中卒の方が社会へ出られます。この方に社会人としての学力、知識というのはどうやって今ついているのかというのは一つ大きな問題やと思います。高卒の方、中卒の方が社会へ出られましたら、それぞれ重要な役割をそれぞれのパートで果たされるわけですから、それに必要な力をつけるというのは私は教育の務めであろうというふうに思います。
 それから、大学でございます。
 大学は、軽量化入試ということで入試科目がどんどんどんどん減っております。それが先ほどの高校へ影響しているわけですけれども。そこのところを、やはりこれは行き過ぎである、これではいかぬということで、国大協の方で五教科七科目に二〇〇四年から戻そうという動きがありますので多少安心しておりますが、ちょっと絞り込み過ぎではないか。
 それからもう一つは、研究と教育のバランスということでありまして、日本の大学は研究の方へ寄り過ぎていないかと。研究も大切でありますけれども、人を育てるという、教育とのバランスというのを、もう少し教育に力を注いでもらうべきではないかと思います。
 ほかに大学院、高専といろいろ申し上げたいことありますけれども、全体としては、基礎学力とともに、考えることを促す教育ということをお願いしたいと思います。
 時間もあれで申しわけございません。ここから後は釈迦に説法なのでまことに失礼なんですけれども、申し上げたいことは、日本というのは資源のない国であります。無資源国日本が戦後このすばらしい発展を遂げてきたというその大きな力は製造業、物づくりの力でありました。その力の源は技術力、技能力で、すなわち人の力であります。これしかありません、日本は。それが弱ってくると、製造業だけじゃなくて産業全体が弱り、経済全体が弱り、それは日本の国全体が弱るということにつながります。先ほど申し上げましたように、国際的な知の大競争に負けてしまう、そういう危機感がございます。
 しかし、日本の物づくりはもうあかんのかというと、そうでなくて、まだまだ力があります。もうこれは御信頼いただいて結構なんですけれども、ただ、やっぱり力の源は人でございますので、ここへ入ってこられる若い人たちにすばらしい力で入ってきてもらわぬとあきません。今はすばらしい技術者、技能者がストックとしてありますから、日本の製造業、頑張れますけれども、それはいつまでもというわけにいきません。ですから、そういう人たちが、すぐれた人が入ってきていただくということが必要であります。
 最後でございますが、今、教育には大変たくさんの問題があるというのは存じております。みんな重要な問題で、みんな緊急の問題なんですけれども、私どもの申しております基礎学力、特に理数科を中心とする基礎学力の低下というのは、これは日本の国にとって、日本の国民にとって大変大きな問題である、基礎学力低下、論理的思考力の低下というのは大変大きな問題であるというふうに思いまして、そういうことでございますので、日本全体のこととして取り組んでいくように、そのようにお願いをしたいと思います。
 以上でございます。どうもありがとうございました。(拍手)

○委員長(橋本聖子君) 
 ありがとうございました。
 次に、藤原参考人にお願いいたします。藤原参考人。

○参考人(藤原和博君)
 藤原でございます。顔がある歌手に似ておりますので、教育界のさだまさしというふうに呼ばれております。よろしくお見知りおきをと思います。
 きょうは、私たちが取り組んでおります全く新しい社会科の授業、「よのなか」科の実践についてお話をいたしまして、後ほど、今、下谷さんから御提示ありました問題点のある種の処方せんのようなものも少し示してみたいかなと思います。
 生きた社会科、足立十一中「よのなか」科でございますけれども、足立区の十一中という公立の中学校で中学三年生を相手にやっております。社会人が本気で学校にかかわると社会科の学びがどれぐらい豊かになるかという、そういう実証をやっているわけなんですけれども、私がこういうことにかかわり合うようになったのは、中学三年生の公民の教科書、これをある日読んでみたことがきっかけでした。全くおもしろくないんです。諸先生の中で中学三年生の公民の教科書を読んだことのある方いらっしゃいますでしょうか。日曜日、三時間で一気に読んでみたんですけれども、今ここにいます私たちの、私たちが住んでいる経済、政治、現代社会という、このこの上なくダイナミックな社会をこれほど死に体に描いているのは、私は罪だとさえ思っております。
 早速ですけれども、初めにちょっと公民の検定教科書のさわりを読んでみますので、どれぐらい皆さんの頭に残るかというのを、ほんの四、五行でございます、目をつぶって聞いていただいてもいいかなと思います。経済のところでございます、「貨幣と流通」というところ。
  貨幣の役割 経済活動の中で、貨幣は次のようなはたらきをしている。その一つは、財やサービスの価値を、価格の大きさとして表現する価値の尺度としてのはたらきである。二つめは、商品代金の支払いや給料の支払いなどに利用できる支払手段、あるいは交換の手段としてのはたらきである。三つめは、貯蓄など価値の保存をするはたらきである。
 「価値の尺度」とか「交換の手段」とか「価値の保存」というところがゴシックになっているのでございますが、ほとんど記憶に残らないんじゃないかというふうに思います。余り読んでいますと皆さん眠くなってしまうと思いますので、この辺にいたしますけれども。
 では次に、私たち「よのなか」科で経済をどのように学んでもらっているかについて、この場でちょっとした模擬授業やらせていただきたいと思います。
 皆さんの手元に資料@という、こういう地図のついたワークシートが配られているかと思います。この右側を見ていただきまして、もしあなたがハンバーガー店の店長だったらこの地図の、お手元の地図の上でどこに新しいお店を出店しますかという、そこを考えてもらいたいなと思うんです。できるだけもうかりそうなところを一カ所だけ選んで、ぜひ五秒ぐらいで星印を書いていただけますでしょうか。生徒たちにはもちろん十五分、二十分まず自分で考えさせて、そしてグループディスカッションをさせて、そしてその上でプレゼンをさせるんですが、ただし条件が一つあります、駅前はだめです。駅前は既に競合他社が出店しておりまして、駅前はだめだと言ったら、知恵のある生徒が駅の中ならいいんでしょうと言うんですね。こういう知恵のあるやつがいたんですけれども、大仁田さんは多分そういう知恵を発揮されるんじゃないかと思いますけれども、こういうことをやります。
 こうして生徒に店長ロールプレーイングをさせる中で、まず自分の意見をはっきりさせて、それをグループでたたいて意見交換した上で、最後に班ごとにプレゼンをさせます。そうした活動の中で、集客力とか稼働率とか、経済にとって大事な概念を、知識として教えるのではなくて、体得、体感させていきます。
 ちなみに、まあ一般的に学力がある子ですね、空欄を埋めるのが上手な子は、駅前はだめでも、どれぐらい離れていればいいんですかみたいなことで、結構駅のそばをうろうろするような傾向がございます。それに比べまして、頭のやわらかい子、結構遊んでいる子で割と学校にマークされちゃっている子なんかが行動半径が非常に広いので、主要道路に面したドライブスルー、信号のそばなどという、そういうキーワードを吐いたりするんです。
 先生方がどこにつけられたかわかりませんが、実はこの正解もあるんですね。これ、正解なくやることもできるんですが、ここのフィールドアスレチックコース、(資料を示す)ここに実際にマックの店が出店されていまして、非常にもうかっています。
 こういうふうに子供たちにいろいろ考えさせて、グループでディスカッションをさせて、そして自分の考えをプレゼンさせるということを繰り返し繰り返しやっております。
 先日、私、大仁田さんのお話をここの傍聴席で聞かせていただいたんですけれども、いじめられっ子を助けるシーンなど非常に感銘を受けました。大変おもしろかったです。高校に改めて行かれたということなんですが、大仁田さんは、例えば高校でテストの点がどうだったかは知りませんけれども、大変頭のいい方だなと、例えばロールプレーイングする力があったり、それからプレゼンする力があったり、そういう力を物すごく感じました。このことについてはまた後ほど触れさせてもらいます。
 子供たちはそうして必ずしもいつも優等生ではない子からも学び合うことができるわけです。すなわち、知の交流が起こるということです。
 このように、ハンバーガー一個から世界が見えるというこの授業は、四、五時間かけまして、今度は原価はどうなっているのかと。じゃ、ハンバーガーの原材料はどこから来るか。これは実際には、レタス以外は全部海外から来ているわけですけれども。あるいは、国際経済にかかわる、子供たちが一番苦手とする為替問題にも言及していきます。例えば、ビッグマック、日本では二八〇円、ハワイで買いますと二ドル五十六セントです。同じ価値のものを、二百八十円、それから二ドル五十六セントで買えるわけですから、この間が交換レート、計算ができます。大体これで割り算しますと、百九円というレートになるんですけれども、これが実は為替ディーラーの間でも非常に世界的に有名なビッグマック指数というものです。
 こうした授業の様子は、お手元の「世界でいちばん受けたい授業」という、この本におよそ十回分ぐらいがドキュメントしてございます。表紙の写真、これは表紙のために撮った、取ってつけたようなやらせの写真ではございませんで、授業にずっとカメラ入れておりますので、自然な子供たちの表情を撮っております。どういう授業をすれば子供たちの目が輝くかということ、御想像いただけるんじゃないかと思います。
 このように、経済、政治、法律、現代社会という公民的分野について、すべて生徒たちの身近にある素材から解き起こしまして、そこに発見や小さな感動が起こるように仕組んでいます。それは可能です。
 ちなみに今月は、今もそこにいる足立十一中の社会科の教諭、杉浦先生と組んで毎週この授業をやっているんですが、法律問題について、検定教科書では定石となっている「憲法の問題から基本的人権を語る」ということから入らずに、少年自身に一番関係の深い法律、少年法を考えるというところから入りまして、模擬法廷をつくりまして、少年審判をロールプレーイングさせることをやっております。御存じのように、アメリカではティーンコートというのがありまして、実際にプロの法律家が手伝いまして裁判そのものを子供たちに進行させる訓練を小さいうちからいたしまして、将来陪審員となり得る市民を地域ぐるみで育てています。こういうふうに、社会人が学校に入ることによってどのように授業が変わるのかということをちょっと御想像いただければと思います。
 さて、時間も限られておりますから、最後に従来型の教科学習と「よのなか」科、この二つがどこが違うのか、どんな関係があるのかということについて言及をさせていただきたいと思います。
 お手元の資料Aをごらんいただきたいんですが、このA3の資料でございます。左側にこの「よのなか」科の授業によって子供たちがどんな能力をゲットするかということを七つほどさっと書いてございますが、一番端的に皆さんにイメージしていただきやすいのは右側の図でございます。このように視線が全く違います。上のように世界を分断して知識として一方的に押しつけるか、これが旧来型の教科授業だと思いますけれども、子供たちにとって最も身近なものから子供たちの視線で世界をのぞき込むかという、視線の逆転が「よのなか」科の本質でございます。視線の逆転です。矢印の方向が逆転しています。そのためにロールプレーイングとかシミュレーション、そしてディベートとかプレゼンテーションを多用しまして考える力をつけていくということをやっています。
 私、個人的にはこのアプローチは理科でも十分可能だというふうに思っています、「よのなか」科理科という。例えばソニーの研究所の研究員が学校の先生と組んでやる授業をつくれるはずだというふうに思います。アイボを教材に使ってロボットの学習をすることで力学を学ぶことは十分可能だと思っております。そういうところにもっと日本は投資をすべきだというふうに思います。選択科目や総合学習にこういった「よのなか」科社会、「よのなか」科理科というものを加えたらいいと思いますし、私は、数学や英語、国語でさえも生徒たちの非常に身近な素材から入って奥深い学習をさせることは可能だと信じております。
 最後に、資料Bをごらんいただきたいと思うんですが、A4一枚の簡単な図でございます。私は、子供の学力をもっとやわらかい視点で見なければ私たちは道を誤ってしまうというふうに考えております。左が従来の学力観です。国語、算数、理科、社会と教科が並んでおります。そこでは情報処理能力が問われます。受験の勝者というのは多分こちら側の勝者だと思います。でも、右側を見てください。右側はここの左側で得た知識を世の中で通用する力に変えてやる、そういう技術がここに並んでおります。
 国語のテストの点、英語のテストの点よりコミュニケーションする力が大事な時代に来ているんだと思いますし、算数のテストの点よりもロジックする力だと思います。先ほど下谷さんからもさんざんその御指摘がございました。理科のテストの点よりもさまざまな自然現象をシミュレーションする力が大事でしょうし、社会のテストの点よりも、先ほどちらっと述べましたし、体験していただいたいろんな社会的な役割をロールプレーイングする力が非常に大事なのではないかと思います。さらに、こういった力によりまして自分の考える力を養い、それによって自分の価値軸上でさまざまな情報を自己編集して、そして自分の意見として述べる、自分で自分の意見を表現するプレゼンテーションする力、この五つが私は二十一世紀の新しい五教科ではないかというふうに信じているわけでございます。これを総称しまして、私は、左の情報処理力に対比しまして、情報編集力というふうに呼んでおります。
 旧来の学力観では左側の正解の伝授が教科の中心になっておりまして、新しい右側の生きる力にとりましては正解のない授業の中で失敗と試行錯誤を繰り返すことが奨励されなければならないと思われます。「よのなか」科の授業でもいつも私が口を酸っぱくして言っておりますのは、正解はないんだ、失敗していいよ、いろんな意見を言ってよということです。この授業を始めたころ、三回目ぐらいまでは子供たちは四十分ぐらいまで余り意見を言いませんでした。私が四十五分目ぐらいに正解を言うと思って、それを待っているわけです。それまでに何か言いますと、それが間違っちゃうと減点されちゃうんじゃないかという、そういうおそれもあったんじゃないかと思います。
 ですから、子供たちに間違わせる、そして私も間違うという、そういう交流をどんどんしていくと。そのことは、やはり社会人が社会や理科の授業に入っていかなければ難しいと思います。学校の先生はやっぱり正解を短時間で効率的に教えるという訓練をずっと受けていらっしゃいますので、無理もないと思います。
 ですから、最後になりますけれども、私には、確かに子供たちのこの左側的な学力、情報処理力はうちの息子の様子を見ておりましても総体的に弱くなっているということは思えるのですが、この右側の新しい学力とでもいいましょうか、情報編集力の方はやり方によっては物すごく飛躍的に伸びる可能性があるのではないかというふうに考えております。
 学習というものは、恐らく左側の知識の学力、基礎力というものと、右側の考える力、情報編集力というもの、この両輪が前輪で回って、そしてその後輪に実体験、体験学習というようなことがきちっとかみ合えば、このトライアングルのウエルバランスで非常にいい学習効果が上がるんじゃないかというふうに思っております。
 ただ、最後に一つだけ問題点を提示しますと、この右側の考える力に関してはなかなか指標がございません。やはり左側の偏差値という指標のわかりやすさから比べますと、測定が可能なのかどうかというのが非常に難しいということはございます。恐らく、今後、私もこのような授業を続けていきまして、ぜひ計測する指標もつくれたらいいなというふうに考えております。
 以上、簡単ではございますが、私のプレゼンテーションにかえたいと思います。
 ありがとうございました。(拍手)

○委員長(橋本聖子君)
 ありがとうございました。
 次に、藤田参考人にお願いいたします。藤田参考人。

○参考人(藤田英典君)
 藤田です。どうぞよろしくお願いいたします。
 さきのお二人は非常に具体的なお話でありましたけれども、私の方は、お手元にかなり膨大な資料を用意しましたが、比較的マクロな観点から日本の学力問題について概観しておきたいと思います。
 今さら言うまでもないことですが、このところ学力低下が非常に大きな問題になっているわけですけれども、日本の戦後の教育だけを見ましても、学力低下論というのは今に始まったものではありませんで、大学生の学力低下について言いますと、一九七〇年代に、いわゆる大学教育の大衆化が進んだ時代にレジャーランド化というようなことで大学生の学力低下ということが問題視され、特に文系の教官によってかなり盛んに議論されました。
 さらに、一九八〇年代の後半から高校教育あるいは大学入試の選択科目の拡大等が進む中で、理系の大学教師を中心に、大学生の理科や数学の学力が非常に低下している、大学教育はこれでは十分にできないということが言われ始め、現在に至っております。
 さらに、最近は、単に理科や数学だけではなく、基礎学力そのものが低下している、そしてそれは画一教育の弊害であるということが理系、経済系の大学教師、あるいは経済界等でしきりと言われているわけであります。
 もう一方で、小中高校生の学力低下につきましても、一九七〇年代に既に七五三ということで授業理解度の低下が現場教師によって盛んに言われ始め、現在に至っておりますし、それから一九八〇年代からは個性、創造性、思考力の低下等々が教育評論家によって言われるようになり、そして現在は基礎学力、今お話がありましたような生きる力、考える力、学ぶ力、学ぶ意欲、国際競争力の低下ということが盛んに議論されているわけです。
 こういったさまざまな学力低下論を大きく六つぐらいに私はまとめられると思っておりますが、一つは、基礎学力そのものが低下している、そしてそれはゆとり教育や新学力観や総合的学習に原因があるという議論であります。
 もう一つは、単に学力だけではなく、努力の水準も低下している、そしてそれは単に低下しているのではなく、学力、努力が二極分化していると。その結果、いわゆる学力、努力の非常に低い子供たちの間に疎外が拡大し、学校ではそれらの子供を両方あわせて教育しなければいけませんから教育がますます困難になり、さらに教育機会の差別化が進んでいるという議論であります。これらは新しい学習指導要領にいずれも批判的であります。
 それに対して、学ぶ力、意欲の低下、これは主として画一教育、他律的・定型的学習を批判する傾向があります。
 さらに、もう一方で、学びのカルチャー、学びからの逃走という言葉も使われておりますが、学びのカルチャーそのものが日本の社会で崩壊してきていると。これも学校教育の他律的学習や学習の個別化、教育の私事化等に原因があるという議論をしております。これらの議論をする人たちは、どちらかといいますと学習指導のあり方、今の「よのなか」科なんかもその一つに入れてもいいかと思いますけれども、新しい学習の形態というものを展開すべきだという議論を主張します。
 もう一方で、エリート教育論といいますか、国際的に競争していくことのできる先端的な、そしてまたベンチャービジネス等を担っていけるようなエリートが必要だということで、この分野の人たちは画一教育や一律平等主義を批判しております。それと関連して、教育自由化論もまた同様の議論をしているところであります。
 そこで、少し日本の学力問題について、国際的な調査データが幾つもありますので、それを参考に少し確認をしておきたいと思います。
 お手元の資料をごらんいただければと思いますが、御存じのように、IEAは数学と理科の学力調査について一九六〇年代から四回にわたって調査を行っておりますが、その資料の@とA、参考図表の@とAをごらんいただいてもわかりますように、日本の中学生の学力水準は四回とも最上位グループに属しております。さらに、一九九五年に行われました第三回の国際比較調査におきましては、アジアNIESの、いわゆる急速に一九八〇年代以降発展を遂げてきたシンガポール、韓国、日本、香港、あるいは台湾といったような国が最上位グループを占めているところであります。これは数学、理科ともそうでありますが、この結果は国際的にも非常に注目され、いわゆる欧米先進諸国におきましてTIMSSインパクトというふうに呼ばれ、教育政策にこの十年間さまざまな影響を及ぼしているところでもあります。さらに、第三回の数学では、日本を初めこれらのシンガポールや韓国の子供たちの上位七五%といいますか、七五パーセンタイル値がアメリカやイギリスの平均値よりも高いということであります。こういったことからも、欧米先進国等では学力水準を高めるためのさまざまな政策がとられているわけであります。
 このこと自体は、そういう意味では現状ではまあいいというふうにも言えなくもないわけですが、そこにも書きましたように、そうはいっても一方で、先ほどの下谷参考人の報告にもありましたように、低下を示唆する各種のデータがありますし、そしてまたそれを危惧する議論が高まっているところであります。
 私自身は、もう一方でそれ以上に問題にすべきだと思っておりますのは、むしろ学校外での生活時間の低下とそして多様化であります。
 これもデータをごらんいただきますとわかりますように、九五年のIEA調査は学校外での生活時間を調べております。参考図表のDとEをごらんいただくとわかりますように、日本の子供たちの学校の外での勉強時間というのは国際的に見ても非常に少ない水準にあります。これは塾も含んだ数字、平均値であります。そして、九五年と九九年を比較しましても、さらにその時間数は減少しております。そしてまた、学校外で勉強する生徒の割合につきましても、国際的に見ても五九%というふうに、国際平均値が八〇%でありますから非常に低い水準にあり、さらにその割合は減っているところであります。
 さらに、学校におきましても宿題を出すということが非常に少なくなってきているわけでありますが、これは参考図表のFとGに出ているところでありますが、他の国々に比べまして宿題を出す割合というのは日本の学校では極めて低い水準にあります。これは数学、理科とも同様であります。
 さらに、参考図表のHをごらんいただきますと、余暇活動時間でありますけれども、これもしばしば指摘されているところではありますが、テレビやビデオを見て過ごす時間は日本の子供は三・一時間で、国際的にこの四十数カ国の中で最も高い割合でいます。他方、家の仕事の時間やスポーツの時間というのは国際的に見ても非常に低い水準にあります。
 以上のように、学校の外で過ごす過ごし方が非常に低下、多様化していると言っていいわけですが、そして勉強時間が低下しているわけですが、これは学力や努力や学業態度というものが子供たちが学校外で過ごす過ごし方によって二極分化、あるいは階層的にさまざまな多様化、格差が拡大しているということであります。そういった子供たちを公立学校の小中学校では受け入れ、教育をしなければいけないわけですから、学校教育の難しさがますます高まっていることは言うまでもないところであります。
 他方、学校内での学習時間とその構成をごらんいただきますと、一番最後の表でありますけれども、これはOECDが行った調査でありまして、一単位時間を六十分、日本では小学校は四十五分、中学校は五十分授業でありますが、それを六十分に換算した数字を載せてあります。これをごらんいただきましてもわかりますように、十四歳時点、これは中学校の二年生時点でありますが、の年間総学習時間数は日本は国際的に見ても非常に少ない水準にあります。これが来年度からは八百十七時間というふうに、世界でもスウェーデンに次いで少ない国になるということであります。
 さらに右側、それ以降は国語、数学、理科等の各教科の時間配分、割合を示しているものでありますけれども、日本の割合をごらんいただきますと、平均的にそれぞれの教科に均等に時間を配分する、全教科重視型の時間配分に特徴があります。ただ、これは二〇〇二年度から御存じのように総合的学習の時間が入ることにより、基礎教科の時間がますます減るということになるわけであります。したがいまして、先ほどの下谷参考人の話にもありましたように、理数系の学習のために費やされる時間がますます少なくなるということになるわけであります。
 こういうようなことを前提にして考えますと、現在進行中の教育制度改革、特に新しい学習指導要領がいろいろ問題をはらんでいることが明らかになろうかと思います。
 まず、基礎学力は現在の時点では国際比較データによればそれほど低下しているわけではありませんけれども、低下を示すデータがさまざまな形で国内では示されているところでありますし、もう一方で学力、努力、学業態度の二極分化や格差が拡大している、そして学習指導、生活指導の困難性が増大しているというのが現在直面している学校の現状であります。
 そういった状況に対して、進められている改革は、学習過程の分断化と言っていいかもしれませんが、習熟度別学習や学習の個人化、あるいはまた学校選択制や中高一貫校、飛び級、飛び入学制等を推進すべきだという議論が行われているところであります。しかし、こういった改革が進めば進むほど小中学校の序列化と新たな進学競争が拡大し、さらには学校というものがますますゆとりのない、そしてまたさまざまなそういう差別等々が子供たちの間に介入するような、入り込むような空間になっていく危険性がないと言えないだろうというふうに思います。
 そこで、以上のようなデータを踏まえて学力問題について少し考えてみたいと思いますけれども、今まで言いましたように、日本の現在直面している学力をめぐる状況というのは確かに何か検討すべき重大な問題をはらんでいる。特に、学習時間の問題について、学校の内外での時間の問題についてもっと厳密にきちっと考える必要があると思われるわけですが、もちろんその教育のあり方が変わる必要がないということではありません。
 そこに何かかた苦しい言葉で書きましたが、知識基盤が変わっていることは明らかでありますし、そして学校だけが唯一の情報を子供たちに意味のある、あるいは役に立つ情報を提供する規範でなくなっていることも事実でありますから、そういう意味で学校の地位が相対的に低下しているという意味で、地位基盤が変容していることも事実であります。
 さらに、子供たちの間に、何のために学ぶのか、何のために努力するのかという意味での意味やインセンティブが失われているということもしばしば言われているところであります。さらには、校内暴力やいじめや学級崩壊等々のような現象の中で、学校の秩序というものが、学習の秩序というものが、その基盤が揺らいでいることも事実であります。
 このように、学校教育あるいは授業というものは以前に比べてますます難しさの度合いを高め、そしてまた対応すべき課題が拡大しているわけでありますが、しかしここで間違っていけないのは、学力や学習や教育の基本、あるいは学校教育の基本は変わらないということだと私は考えます。
 そこで、学力とは何かということでありますけれども、これにつきましてはさまざまな見方がありますけれども、ここでは大きく知識、技能、英語ではナレッジとスキルという言葉が使われておりますが、この一年間に私が出た三つぐらいの国際会議でもすべてナレッジとスキルをいかに、いわゆる知の大競争時代とか知能をめぐるヘゲモニーが再編されている時代に知識と技能をどのように再建していくのかということがテーマになった議論でありますが、この知識と技能というものを学力の中心と考える考え方と、それに対して思考力や判断力、もちろん論理的思考力も含まれますが、さらには日本で好んで使われております学ぶ力といったものを重要視する考え方もあります。それから、興味、関心、意欲等々、新学力観の中に入っているものでありますが、そういったものが重要だという議論もあります。いずれも学力の中に私は含まれると思いますけれども、これをどうとらえるかということについては議論の分かれるところであります。
 私の考えでは、学力の基本は@を中心にしたものであり、そして受験学力も、極端なものはともかくとしても、学力の中核部分を占めるものであると考えております。と同時に、その@と学ぶ力や構えというものは学習、努力や経験、つまり時間をかけてこそ形成されるものだと。
 そしてまたAというのは、@の形成に伴い、それを基盤にして発揮されるものでありまして、Aを殊さらに育成しようとして特別のプログラムを組むということ、@をおろそかにしたプログラムを組むとしたら、それはゆがんだものになると思います。その点で、私は、先ほどの藤原参考人の提案された方法は、決して@を軽視しているのではなく、@を組み込みながらAをいかに充実しようかとしているという点で非常にすぐれた実践だというふうにも思います。
 さらに、Bにつきましても同様のことが言われますが、それに加えて努力や参加ということ、子供たち自身の参加ということが重要なわけでありますが、これも@を伴ってこそ、あるいは@を基盤にしてこそ意味のあるものになると思われます。
 近年の改革動向は、欧米では@を重視し、この向上を徹底して追求しております。それに対して、日本のこの十五年ぐらいの改革というのは、AとBが重要だと言ってその方向でのプログラムを充実するという改革を行い、@の部分を軽視した改革が行われてきました。このAとBを重視した改革は、実は欧米諸国におきましては一九五〇年代から七〇年代に進められた改革であります。
 そういうわけで、私は、現在日本の教育が直面している問題というのは、今言いましたように、学力というものを基本的には知識や技能というものを中核に据え、それをいかに高めるかということ、そのためにはAやBの要素をどのように加味し、学習のあり方を再編していくかということが重要であると考えるわけでありますが、これは基本的には小中段階、そしてせいぜい高校段階に言えることでありまして、大学教育につきましてはさらにほかの問題、先ほどの御指摘にもありました教育と研究のバランスということも重要であることは言うまでもありません。
 時間がほとんど尽きてきましたので、最後のページをごらんいただきたいと思いますが、学力ということが学校教育の中心的な役割であることは言うまでもありませんが、学校教育、特に小中高校段階の教育につきましては、三つの要素を考える必要が私はあると考えております。
 一つは、生活の場であるということ。学校そのものは安全で健全で安定しており、楽しく、そしてコミュニティーとして、仲間のいる場所として充実したものでなければいけない。この部分がこの二十年、日本の学校で問題視されて、余りにゆとり教育という言葉が使われるようになったわけでありますが、ゆとり教育という言葉は、当初は学校の中でのゆとりをいかにつくり出すかという議論が行われましたけれども、一九八〇年代の半ば以降、臨教審以降今日に至るまで、ゆとりという言葉は、学校の中でのゆとりではなく、学校の外でのゆとり、あるいは子供たちの生活時間の中で自由な時間をふやすという意味にむしろ使われてきたところであります。
 それから、二番目に重要なことは、学校は言うまでもなく教育の場でありますが、生活の型の形成と基礎的な能力の形成と積極的な倫理観の形成、そしてアイデンティティーの形成ということがそれぞれに重要であります。これらは相互に絡み合いながら、そして形成されるものだと思いますが、間違ってはいけないのは、この個々の要素をそれぞれに個別のプログラム、例えば部活動が倫理観や生活の型を形成するとか、そういうふうに考えるべきではないということであります。学習の基本的な時間、学力、クラスでの学習活動そのものがこれら四つのすべてを形成する働きを持っていると。クラスでの学習をそのようなものとして編成することが重要だということであります。
 あと、社会的選抜・配分、資格付与とか社会秩序につきましては、お手元に特に少年犯罪の国際比較のデータを示しておきましたけれども、日本では青少年の犯罪や非行につきましてはこれが凶悪化しているということで、これもまた学校教育の根本的なあり方を変えなければいけないと言われておりますけれども、欧米諸国では日本の青少年の犯罪発生率がなぜこれほど低いのか、その原因はどこにあるのかという議論と探求を行っております。そして、多くの研究者が指摘し始めているのは、日本の学校はコミュニティーとして、あるいは地域社会もコミュニティーとしてまだ欧米に比べればよさを持っている、その中にこの少年非行、犯罪の発生率の低さの原因があるのではないかという議論をしております。
 したがって、私は日本の教育を根本的に変えるという議論に流されるのではなく、どこをどのように変えていくことで適切な改善が行われるのか。そして、学力につきましては、制度やあるいはカリキュラムのトータルな改革ではなく、先ほどの提案にもありましたような学習の中での改善を進めていく。
 その際に、私はカリキュラムにつきまして一つつけ加えておきますならば、数学やあるいは国語、あるいは外国語というのは時間をかけることが決定的に重要でありますが、例えば小学校の社会につきましては、これはやり方次第では必ずしも現在ほどの時間をかけなくても私は十分なことができるというふうに考えております。(拍手)

○委員長(橋本聖子君)
 ありがとうございました。
 次に、村山参考人にお願いいたします。村山参考人。

○参考人(村山士郎君) 三人のお話をずっと聞いていて、重なるところもあるかなと思いつつ、自分の準備したものを話してみたいと思います。
 私は大東文化大学というところで教えているわけですけれども、もう一つ、現場の先生方の研究会である日本作文の会という会があります。年輩の方はやまびこ学校とかを知っている方もいらっしゃるので、そういう流れをくむ今約千人ぐらいの会員を持つ研究会です。そこの先生方の努力などを含めて少しお話ししてみたいというふうに考えています。
 学力の問題をどういうふうに考えるかというときに、少し話が大きくなりますけれども、そして学問的にはなかなか規定できないんですが、僕は、人間の非常に基本的な諸力というものが相当激変しているという、そういう問題を学力の問題と絡めて考えていかないと、問題が学校教育的な要因のみに収れんされていくということをどうなんだろうかというふうに常々思っております。
 例えば、つい先日発表された子供たちの体力の問題とかであります。十九歳の男子、千五百メートルで十年間に三十二秒遅くなっていますね。計算すると、百二十メートルぐらい遅くなっているんです、十年間でですよ。これは、この間いろんなデータを見ていきますと、大体三百年ぐらいたつとほとんどゼロになるテンポでこの十年とか二十年推移しているわけですよ。それは、単に体力とか運動能力だけではなくて、子供たちのさまざまな諸力がやっぱり大きな変化を遂げていて、私の言葉で言えば、人間的な諸力が衰退していると。
 そのことと教育、そして学力ということが非常に密接な関係があって、そういう視野で学校をどう立て直していくのかというふうに考えていく必要があるんじゃないかなというのが一つの私の持論なわけです。
 藤田参考人の方から既に学力低下問題をどう見るかというのは非常に詳細に話されましたので、結論的にいうと、国際比較の問題でいうと、確かにおおむね高いということは事実なんですが、よく読んでいきますと、考えたり応用するという部分については決して高くなくて、中位ぐらいにあるわけで、しかも、学ぶことが好きか嫌いかというそういう部分を見ていきますと、大好きという部分が非常に低いわけですよね。ですから、国際比較を読みながら私が思うことは、高学力と言われている質の問題と、それからこんなに大量の他の国と比べて勉強が好きな子が少ないという問題はどういうふうに考えるんだろうかということがやっぱりあると思うんです。小学校や中学校の先生に聞けば、すごく高い学力を持っていても、勉強が嫌いな子はその後の伸びということに対して非常に疑問視される、そういう多くの先生の指摘があるわけですね。
 二つ目は、これは総務庁の調査とかあるいは藤沢市の最近の調査を見てすごく考えさせられるんですが、そして一般に、自分も感じるところがあるわけですが、学ぶということに対する子供たちの意識とか価値がやっぱり大きく変わっているんじゃないかなという気がします。
 僕は結構まじめに勉強して、僕は母しかいませんでしたので、親孝行しなきゃいけないみたいにして小さいときは勉強して、そういう年代というのは、ある年齢の上の人たちはみんなそうだったと思うんですが、今の子供たちにとって学ぶことがどれだけ価値のあることかということで揺らぎがあるというふうに思います。社会的に自分が学んでいることの意味が認められないという、そういう問題がやっぱり大きいんじゃないか。そういう点で、日本の社会が子供たちに学ぶ希望ということをどういうふうに与えているのかという問題も考えてみなければいけないと思うわけです。
 三番目は、私も大学の教員をしていますので、学生が読めなかったり書けなかったりすることというのは嫌なほど感じております。しかし、彼らは自分で学びたいことが見つかれば物すごい力を発揮するという、そういう側面もあるわけです。
 何か東大の工学部の数学が落ちていると言うけれども、あれは二年生の後半ぐらいに調べているわけで、大学に入ってもう二年もたっているわけですから、その学力の低下については大学も責任があるんじゃないかというふうに考えると、それは単に高校、中学、小学校だけの問題ではなくて、やっぱり大学に入ってからそれまで学んできた知識のはげ落ちる度合いが非常に早くなっているんじゃないか。
 つまり、我々も大学に入って高校まで学んできたことをたくさん忘れました。忘れても支障のないことはたくさんありました。しかし、今の子供たちというのは多分入ってから、学力の定着度といいますか、それが根がないものだから非常に早い時期にはげ落ちていくという、そういう現象があるんじゃないかなと思うわけです。
 じゃ、君は学力という問題をどう考えているんだというふうに言われると、僕は余り専門ではないんですが、現場の先生方がどんなふうに学力ということで一生懸命努力をなさっているかというふうに考えると、第一は、それぞれの教科の内容に即して基本的な事項を覚えたり習得する、先ほどで言うと藤田参考人のスキルの部分ですね、そういうことは一生懸命努力をしているんじゃないかと僕は思うんです。
 むしろそこをやり過ぎているんじゃないか、あるいはそこを一面的にやるということがむしろ子供たちの意欲をそいでいるんじゃないかという現象も見られるけれども、日本の先生は読み書きそろばんということをすごく大事にしている人たちなので、それは学力を構成する一つの重要な要素であろうと。仮にそれをできること、余り学問上の話じゃないんですが、できることというふうにすると、第二番目は、覚えたり習得したものをその法則や成り立ちを理解しながら系統的に認識をする、わかっていくという、そういうプロセスがあるんじゃないか。
 私は、大学で小学校の教員になる学生を教えていますが、一年生によく言われます、分数の割り算というのはなぜ逆さまにして掛ければ答えが出るのでしょうかと。うちの大学の学生は偏差値が低いと言われそうなんですが、大体三十名いて、やれるのは一人か二人ぐらいです、文系だということもありますけれども。みんな頑張るんです、一時間かけてやりますから。いろいろ集団で研究して、黒板に行って報告しますが、なかなかできません。
 ですから、大学に入って分数の掛け算ができなくなるというのは、かなり僕は理解できるわけです。つまり、事柄がわかっていなくて、そしてやり方だけ覚えてきた子供たちが、ある時期になればそこのところが、基礎がこけちゃえば、実際にやれたことも非常に不安定になっていくという、そういう現象があるんじゃないかと僕は思うわけです。
 歴史の年号でも、例えば一九四五年は日本の敗戦ではありますけれども、それを一九三一年の満州事変やあるいは四一年の太平洋戦争の開戦の問題ということと関係づけて事柄がわかるというふうにはなかなかならない。
 ですから、僕は余り理系のことはよくわからないので、理科のことも例に出せばいいんでしょうが、ちょっとそういうところが自分の弱いところなんですが、そういうある系統的な事柄として知識がわかっていない、ですから非常に早くはげ落ちるんじゃないかとも思うわけです。それを仮にわかることというふうに考えてみたいわけなんです。
 第三は、できることとわかることということを前提にして、そこで得た学校的な知恵は自分にとってどういう意味があるのか、あるいは自分の生活にかかわらせながらそれを発展させていくという、そこの部分は日本の学校教育がもともと弱いと言われてきた部分なんでしょうと思う。この間、いろんな政策の方の側からも、学校の先生方の方からもここに関してはいろんな努力がなされてきているところなんだろうと僕は思っております。
 その場合に、第一のできることとかわかることということを前提にして、それを自分にとって意味のある世界をつくっていく、そこがある意味では個性化というふうに僕は考えていますし、そこに独創性という、創造性という世界も広がるんじゃないかというふうに考えるわけです。ですから、そこでは探求的な学習をもとにした他者との意見の交換、表現として学んだことを作品化するような、そういう学び方というものがすごく求められているんではないかなというふうに私は考えています。
 そういうことを少し考えながら先に話を進めていきますけれども、二枚目の真ん中辺のちょっと上なんですが、私の考えでは、今日、学ぶことへの興味や関心ということが後退して、あるいは先ほど話しましたようなはげ落ちる現象ということが急速に進んでいるというようなことを考えますと、習得した知識というものがわかるとかできるということに裏打ちされていないということもありますけれども、むしろ、それを個性化したり、それを創造的に使ったりするということが学校でほとんど必要ではないという問題がはげ落ちたり、ある時点でわかったことがすぐに欠け落ちてしまうような現象につながっているんではないかなというふうにも考えますし、同時に、高校や大学の画一的知識を要求する入試の質ということにも強く影響しているということは多くの方が指摘しているとおりだと思うんです。
 日本の入試というのは、センター入試も含めまして、僕の考えだと、どちらかというと第一の部分をすごく求めるわけで、本来ならば、大学に入るときは第三の、私で言えば、意味化する、個性化するという部分をもっともっと評価するような、そういう構造の入試になっていかなければいけないんではないかというふうに思うわけで、僕は余り詳しくはありませんが、いろんな物の本を読めば、欧米の大学入試あるいは資格試験のやり方というものがセンター入試などとはかなり違った内容を持っているということも考えますし、そういう点での深く学ぶところを、入試というのはある到達点の知識の水準を否定してしまいますから、本当に深く学ぶ学生を掘り当てられないし、そういう学習が必要な中学や高校になっていないという、そういう感じがするわけです。
 それから三番目に、もう一つ、少し話したいことは、実はここにもう一つの問題がありまして、先ほど話しました人間的な諸力が衰えているんじゃないかという話の中には、私は作文の会の先生方といつもいるものですから、話がたくさん入ってくるということもありまして、言葉というものの衰退というものが学校教育の枠だけではないところですごく進行していて、そのことと学力との問題というのは非常に影響があるんじゃないかというふうに考えるわけです。
 私の方から講義するまでもなく、言葉というものは、他者とのコミュニケーション能力や、あるいは事柄や対象を認識していく力、そしてそれを組み立てながら考えていく思考力や論理性、そしてそれを先ほどお話ししましたように意味化し個性化するという、そういう機能を果たしておりまして、学ぶ際には、あらゆる科目の中であらゆる領域を学ぶときには言葉という力がその前提になっているというふうに言われるわけです。
 きょうのテーマとは違いますが、言葉の力は、ヘレン・ケラーの例にもあるように、人間の人間らしい部分を形成する、そういう役割も果たすわけですが、そういう視点で学力低下の問題を見ていくときに、読むこと、書くことということの指摘も大事なんですが、子供たちが言葉という力を本当に獲得しないままに成長している、そういう事態ということをもう少し考える必要があるんじゃないかと思うんです。
 一つの問題は、それは生活環境的な要因で子供たちの言葉の力が衰え始めてきている。それは、子供たちの自然体験や労働体験やあるいは生活体験が極めて狭くなっている、不足しているということにもあらわれているように、そういういろんな体験をしながら子供たちというのは言葉というものを一つ一つ獲得していくというふうに思うんです。
 この前、学校の先生とお話ししましたら、ツクシという、ツクシンボは知っているけれどもスギナは知らないとか、漢字で月は書けるけれども満月は見たことがないとか。これは、奈良県で授業を見たときに、六年生の歴史で碁盤の目のような町という平城京を教えているときに、碁盤の目のようなというのはどういうことですかと言ったら、十五分間ぐらい生徒たちが話をして、ある突拍子もない男の子が、わかった、カツオ君のお父さんがやっているやつと、漫画です、「サザエさん」のカツオ君のお父さんがやっているやつと言って初めてクラスの人がみんなわかるという、それで初めて歴史の授業に戻ってやるという、そういう経験とか。あるいは、牛という一つの言葉を獲得するときに、牛を見たことがないのに牛という言葉をみんな知っているけれども、その牛というものに本当に接したりする、そういう体験のないままに牛という言葉が頭の中に入ってきている。
 ですから、言葉自身が大変薄っぺらくなっていて、そして本当に自分の見たことや聞いたことや体験したことに組み込まれていない、そういう言葉というものが子供たちの中に今広がっているんじゃないか。ですから、実感がある感情表現をしてみろと言っても、非常に何か薄っぺらな、つまり別にと言ってみたりという、そういうことにつながっているような気がします。
 二つ目は、子供の文化とかあるいは子育て文化が大変変わっていっている中で、子供たちの言葉というものが激変しているんではないかと思います。
 簡単なことを言いますと、これは自分の子育てにもあったんですが、親とか家族の言葉かけというものが、読み聞かせて口から話をしてくれるという時代からCDとかテープとかテレビとかビデオに変わっていく、そういう母語による口承文化が非常に衰退しているという問題もあります。
 それから、これはたくさんの指摘をされていますが、長時間のテレビ視聴とかゲーム機の視聴、これは計算してみますと、先ほども藤田参考人の方で言っていただいたんですが、ちょっと古いデータなんですが、一日三時間以上が五三、四時間以上が二六と、これは九五年のNHKの調査でちょっと古いんですが、仮に一日の生活時間を、十時間、寝る時間や食べたりトイレに行ったりする時間をとって、残りの十四時間をそんなに好きなら全部やってみなさいとテレビを見せると、三時間のグループは約七十八日間座敷牢に入れてテレビを見させなきゃいけないし、四時間グループは何と百四日それを見続けるぐらい彼らは見続けているわけです。
 こういう中で獲得されている言葉の問題というのは、やっぱり抽象化された、あるいは媒介、そのこと自身をすべて否定するわけではありませんけれども、大きな問題を抱えているんではないか。
 それから、先日、毎日新聞の読書調査、これは毎年行われているので皆さんもよく御存じですが、一カ月に一冊も読まない高校生が六七%、平均一・一冊、その中の重要な一冊は「チーズはどこへ消えた?」という本であったというそういう実態の中で、学校教育以前の問題としてこういうことが現に進行している。
 三番目は、もちろん学校的な要因があると思います。
 書くことといえば、学校の中では先生方の頭の中にまず漢字を教えなきゃいけないと。今度二百二十四時間国語の時間が減りますが、千六字の漢字は変わりません。かつて五八年、六八年、新幹線授業だと言われたときの一年生の漢字は四十六字でした。今は八十字です。だから、そういうことを考えて、先生方がこれから四月以降、漢字は後で教えてもいいんだよというふうにも言われているが、そういうことはすごく問題になる。学校教育の中で先生方が忙しくて日記指導などがなかなかできなくなってきている。それから、書くことが非常に多様化して指導されるという中で、これは決して悪いことではないんですが、短文で伝達をするということにかなり力点が置かれるがゆえに、事柄を系統的に考えながら論理的に書いていくということがなかなかできなくなってきている。それから、音声言語コミュニケーションが非常に大事にされるということによって、そのことと同時に書き言葉というものを前提とした音声言語コミュニケーションの大事さというようなことが統一的に考えられなければいけないんじゃないかとか、それから入試問題では、国語の高校や大学の入試を見ると、やはりこれは受験する子供たちが絶対本を読んでいかなければいけないというそういう入試ではないわけで、そういう意味では、諸外国の入試なんかと比べてみても考える余地はたくさんあるんじゃないかというふうに思います。
 以上、私の考え方ですが、結論的に言うと、言葉の力の衰退現象ということが認識力や思考力、論理力や表現力に影響を与えているというふうに考えているわけで、そのことと学力低下の問題ということは深い結びつきがあるんじゃないか。ただ、言葉というのはデータ化できないという弱点がありまして、じゃ何%ぐらい下がっているんだと言われるとなかなか難しいわけですが、そういうことを問題にしておきたい。
 したがって、学力低下問題ということを学校教育的要因の枠だけではなかなかとらえ切れなくて、生活環境的要因、子供の文化や子育て文化の要因を含めたとらえ方が必要であると同時に、学校教育の側から、生活環境の組みかえや子供文化、子育て文化を組みかえるようなメッセージが求められているんじゃないかなというふうに考えます。
 本当は、子供たちって決してそういう否定的なことだけではなくてもっと楽しいいろんな生き生きとした姿もあるわけですが、それは後で、時間がありましたら子供の作品などを紹介してみたいと思います。
 以上です。長くなりまして済みませんでした。(拍手)

○委員長(橋本聖子君)
 ありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの意見の聴取は終わりました。


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