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「物価変動と財転換仮説」

    慶応義塾大学SFC 松本 泉  

 1994年以降、日本は長期デフレ経済へと突入した。消費者物価指数(CPI: consumer price index)は消費税導入による影響を除くと年次ベースで94年以降持続的に下落を続けており、月次ベースでは2002年7月期において2年10ヶ月(34ヶ月)連続で前年同期比を下回っている。また「世界の工場」と呼ばれ、経済が好調だと思われている中国においても、月次ベースでみた小売物価指数(RPI: retail price index)は2002年7月期までで14ヶ月連続で下落しており、今やデフレは地球規模での供給過剰の帰結として、全世界的に発生している。

 しかしながらこれまでのデフレの論議は、主としてマクロ的アプローチを用いて分析がなされており、ミクロ経済学的な分析はあまりなされてこなかった。個々の財、および市場において何が起こっているのかを分析することは、マクロ的な経済情勢を加味する上でも大変重要なことである。本論においては、物価変動時における個々の財の転換現象というミクロ経済学的な視点からデフレーションの弊害を語り、デフレからの脱却に向けた政策を提唱することとしたい。

 まずマクロ経済学的なデフレーションによる経済的影響について、簡単に述べておくこととする。一般的にデフレーションによって起こるマクロ経済的影響は以下の6点である。

1.貨幣価値が上昇し、物の価値が下落することで、人々の間で共有する財の将来期待価格が下落し、それが「買い控え」となって消費支出を減少させる。

2.インフレーション時とは逆の貨幣錯覚(つまり名目賃金が下落することで、実質賃金・所得も下落してしまったと錯覚すること)が生じ、それが消費支出を減少させる。

3.経済全体の不確実性が増大することで貨幣保有の「予備的動機」が高まり、貯蓄や手元流動性が増加することによって消費支出を減少させる。

4.債務者から債権者へと強制的な所得移転が生じ、債務の実質価値が上昇することで企業や家計の利潤が圧迫され、消費支出や設備投資が減少する。

5.実質金利が上昇し、資本コストが増大することで企業の設備投資を減少させる。

6.(1)~(5)によって経済全体の需要が縮小し、市場は供給力の削減という方法で均衡を達成しようとするため一層需要が減退し、経済がいわゆる縮小均衡の状態へと陥る。

I・フィッシャー、J・M・ケインズ、J・S・ミル、C・メンガーなどの偉大な経済学者によって、このようにマクロ経済的なデフレーションの弊害は整理された。これらは非常に重要な分析であるのだが、他方やや総論的である点が否めない。そこで本論においては個々の財に目を向けることで、ミクロ経済学的なデフレーションの弊害について言及してみたい。

 本論において提起する興味深いデフレーションによるミクロ的な影響として、物価下落が「通常財」を「ギッフェン財」へと転換させてしまうという、「財の転換現象」とも言うべき現象を挙げることができる。いわゆる「ギッフェン財」とは価格に対して正の弾力性を持つ財のことであるが、もしここで物価変動が財の構成比を変化させる効果を有しているとした仮定が成り立つのならば、物価下落によって需要が増大し長期均衡が達成されるという、A・マーシャルによって発見され、現代経済学の根底をなす古典派の命題が成立しなくなってしまう。すなわち持続的な物価下落(デフレと言い換えてもよい)が持続的に財に対する需要を減少させてしまうため、経済は縮小均衡への果てしない調整過程から脱却することができなくなってしまうのである。

 ここで上記の現象を裏付ける身近な例として、マクドナルドの例を取り上げてみたい。日本マクドナルドは月~金までの平日の間は通常130円であるハンバーガーを65円に、通常160円であるチーズバーガーを80円にするという、いわゆる「平日半額セール」を、2002年2月に終了した。この「平日半額セール」によってハンバーガーの販売個数がピーク時の2001年5月には8倍にまで増加したが、「平日半額セール」を終了した3月~7月までの間はBSE事件の影響もあり、月間売上高が前年同月比で10%~20%減少するという結果になった。そこでマクドナルドは2002年8月5日から常時ハンバーガーを59円、チーズバーガーを79円に値下げするという戦略に転換した。しかし値下げ初日こそ前年同日比で2.3%増という売上高を達成したが、結局その後は売り上げが伸び悩み、8月の既存店売上高は前年同月比で3.8%のマイナスとなった。このことはすなわち、ハンバーガーは「平日半額セール」実施時より6円、チーズバーガーは1円価格が安いにも関わらず、当時より売り上げが減少しているということを示している。すなわちハンバーガーという消費財が「通常財」から「ギッフェン財」へと転換してしまったのである。

 上記の例は言わばI・フィッシャーの「デッド・デフレーション」の議論をミクロ的に分析したものであると言えよう。デフレ下の経済情勢においては、財価格下落による「ブランド価値」の喪失が起こり、それが「通常財」を「ギッフェン財」へと転換させ、より一層の需要低迷を招くのである。このような「財の転換プロセス」は筆者の仮説であるが、デフレーションがミクロ的に見ても害悪をなす、ということを裏付ける一つの論証になる。

日本経済はマクロ的に見ても、ミクロ的に見ても、一刻も早くデフレからの脱却を図らなければならないのである。

 さて、それではそのようなデフレ経済から脱却するためにはどうすればよいのだろうか。通常のケインズ的総需要管理政策について考えてみると、金融政策はコールレートが下限に張り付いている限りこれ以上引き下げの余地はなく、また金融政策のターゲットを金利ではなく市場への通貨供給量とする量的緩和政策も、経済がこのような流動性の罠に陥ってしまっている限り、供給したマネーが無限の資金需要によって吸収されてしまい総需要の拡大に結びつかず、従ってデフレ脱却には有効ではない。財政政策の失敗については改めて言及するまでもないだろう。

 そこでやはりデフレ脱却のための本筋の政策としては、不良債権処理による金融機能の健全化によって市場に供給したマネーが信用創造へと結びつくようにすることである。勿論不良債権処理が短期的にはデフレ圧力を生んでしまうことは当然の現象であり、あくまで一時的なデフレ圧力は別個のものとして考えたい。さてその際の不良債権処理とは、改正預金保険法に基づく公的資金の注入(預金保険機構がRCCを通じて金融機関の保有する優先株や劣後債、劣後ローンなどを購入する)や金融機関の一時国有化(同様にRCCによって議決権の発生する金融機関の普通株を購入する)を前提としたものとなる。しかしここで疑問であるのは、本当にただ不良債権処理を行えば日本経済はデフレから脱却し、長期の成長トレンドへと回帰できるのであろうか、ということである。

 上記の疑問、すなわち「不良債権処理によって日本経済は回復するのか」という問いの答えは、以下の2点の状況の下ではノーであると言わざるを得ない。

1.不良債権処理を行うも企業の投資収益率が改善せず、企業サイドの資金需要が低迷したまま信用乗数プロセスが働かず、継続するデフレ経済の下で再び不良債権が発生する。
2.金融機関側の融資に対する不信感・恐怖感などによって思うように融資額が伸びず、需要が低迷したままデフレが継続する。

 慶應義塾大学の曽根泰教教授の「不良債権問題の本当の解決とは、不良債権問題というissueが政策争点から消え去ることである」という指摘は非常に鋭いものであり、結局のところ何らかの方法で公的資金を用いて不良債権の一括処理を行ったとしても、それ単体の政策だけでは、上記の要因によって相変わらず日本経済はデフレから脱却できず、低迷をし続ける可能性が非常に高い。

 そこで上記の2点の問題点を解決されるためには、不良債権処理と並行して

1.企業の投資収益率が回復する。
2.実質金利の低下によって資本コストが低下する。 

のどちらかが起こり、企業の設備投資需要が回復しなければならない。だが(1)は税制などによってある程度政策余地が残されているとはいえ、基本的に個々の企業の経営努力(リストラクチャリングの断行や、新規製品の開発などによって競争力を回復させること)の問題であり、結局は(2)の手段しか残されていないということになる。名目金利はほぼ下限に張り付いてしまっているので、インフレを発生させて実質金利を低下させるしかない。よってここで「デフレから脱却するための不良債権処理を機能させるために、インフレを発生させなければならない」という逆説的な日本経済の現状が浮き上がってくるのである。

 つまり結論としては、日本経済の回復のためには不良債権処理を行うと同時に、デフレーションから脱却するための政策を併用しなければならないということになる。(すなわち不良債権処理はデフレ脱却のための解決策とはなりえない。)そこでそのための手段として人為的にインフレーションを発生させる政策を不良債権処理と同時に採用せざるを得ない。そのような政策としては、千葉商科大学の加藤寛学長の提唱する「スタンプ通貨」案(一定期間内に使用しなければ価値が減価する通貨)や、慶應義塾大学の深尾光洋教授の提唱する「貨幣税」(現金通貨や、預金、債券などの保有に税金をかけるという政策)、「新円切り替え」(現在流通している円を、例えば新円100円に対して旧円102円といったような交換レートで切り替えるという政策)などの政策を挙げることができる。現状ではこれらのように人為的にインフレーションを引き起こすという政策のフィージビリティーは低いと言わざるを得ないが、これらのように強制的にであれインフレを引き起こす政策を伴わなければ不良債権処理は日本経済復活の突破口とはなりえないであろう。

 本論においてはマクロ・ミクロの広範な領域に渡るデフレーションの弊害について述べ、そのような経済情勢から脱却するためには単なる不良債権処理だけでは不充分であるということを提言した。新生民主党が政権を担った時に、このような視点を欠くことなく経済政策を進めていってくれることを期待したい。


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