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 野村万之丞さんを偲ぶ



私が心から敬愛する狂言師野村万之丞さんが去る六月十日に急逝されました。四十四歳でした。四月の北朝鮮公演から帰国直後に発病され、癌があきらかになり、六月にアテネオリンピックへの聖火を見送った直後に亡くなられました。五月二十二日の私の結婚式に、お祝いのメッセージビデオも贈っていただいていましたのに、私も、悲しみと驚きで言葉がありませんでした。参議院選挙の前日大隈講堂で行われたお別れの会でも、無念の涙が止まりませんでした。

野村万之丞さんは、日本への、アジアへの、人類への、次世代への、答えをすべてもっておられました。そして、すでに始めておられました。本当に、本当に、かけがえのない方を失いました。日本が輩出した世界スケールの天才アーティストであり、天才プロデューサーでした。竹村真一さんが、「万之丞さんのお仕事の素晴らしさや意義を語れる人はいるけれども、彼に代わって、その仕事を受け継げる人は何処にもいない。」といって肩を落としておられましたが、まさに、そのとおりです。これこそ痛恨の極みです。

私が万之丞さんと一緒に夢みてきたのは、人類史に新たな時代を拓くことでした。文化や芸術を通じて平和な世の中にすることでした。近現代=欲望と戦争の時代は、欧米から始まり、日本を経てアジアに広がっていきました。いまだに多くの人々が物欲主義の呪縛から逃げられず、いまだに戦火が絶えません。結局、二十世紀は『敵』と『争』の世紀でした。

次の時代の主題は何か、それは『友』と『楽』です。良き友と交わり笑い声が響く楽しい時を共にする。このことを最も大事にする時代を創るため万之丞さんは立ちあがりました。狂言の名家・野村家に生まれた万之丞さんだからこそ、誰よりも「笑い」のもつ底力を知っていました。笑いは、その場にいるすべての人々を忽ち幸せの渦のなかに巻き込んでしまいます。世界中を笑いで満たしたい。

だからこそ、万之丞さんは、大田楽や萬歳楽などの楽劇創りに打ち込みました。野村さんが真っ先に仮面(マスク)に着目したのは流石でした。仮面をかぶった瞬間に、人々の間の垣根が消えて、みんなが心一つに祭りに興じられるのです。本来の『楽』と『祭』をアジア中・世界中に伝え直していくために、マスクロードの旅を始めました。シルクロードを終点日本から全アジアへと歩みを進めました。韓国での大成功に引き続き、今年は、北朝鮮に渡りました。数日間ではありますが、あの北朝鮮にすら本当の笑いが戻りました。来年は北京。それから、いよいよシルクロードへと夢は着々でした。中国奥地へは万之丞さんと私の双方のパイプでお願いしようなどという相談もしていました。このプロジェクトは本当に世界を変えると私も確信いたしました。

笑いの原点である「狂言」の基盤を固めるために、来年1月の野村万蔵襲名を期に、狂言協会構想なども私に熱く語っていただきました。日本伝統文化への万之丞さんの強い愛情と使命感に私は強く心を打たれました。

さらに、芸術・文化を支える仕組みづくりにも野村万之丞さんは奔走されました。昨年は、NPO税制実現のために文化人の先頭にたって永田町・霞ヶ関の関係者を説得して回っておられました。

そのほかにも、NHKドラマの時代考証、日米文化交流プログラム、新たな東京での劇場づくりのプロデュースをはじめ、世界中のあらゆる人々からの、あらゆる相談を、万之丞さんは気持ちよく引き受けていらっしゃいました。

そうした、猛烈に多忙なプロデュース活動の傍ら、本来の狂言師としての舞台も見事に務められ、自らの芸には一切妥協されませんでした。いつもいい舞台でした。さらに、激務のなか、早稲田大学や桜美林大学で若者たちの指導にもあたっておられました。

万之丞さんは、狂言のため、芸能のため、日本のため、アジアのため、次代のため、世界のために、超人的な毎日を、まさに、身を粉にして、頑張っておられたのです。すでに何十倍もの人生を生きておられました。少し飛ばしすぎたのかもしれません。でも、もっと長く、ご一緒にこの時代を生きていただきたかった。

万之丞さん。私は、あなたの構想とあなたの始められたことの素晴らしさを可能な限り多くの方々に伝えていくこと、そして、あなたの構想の実現に関わるあらゆることを力の限りやり続けていきたいと思います。ただ、あなたの構想をあなたに代わって実現できる方がいないという現実に我々は呆然と立ちつくすしかありません。ここのところは、天国からも、ぜひ知恵を貸してください。また、頼みごとをしてしまいました。すみません。天国では、ゆっくりお休みください。心から、ご冥福をお祈りいたします。    合掌

 

 





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