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 国立大学法人法成立 〜文部科学省統制では学問の発展はない!〜
 
 今国会で最もエネルギーを注いだことのひとつが、国立大学法人法案です。民主党大学改革ワーキング・チーム事務局長として、法案上程から成立まで約130日間にわたり一貫して取り組んでまいりました。今国会は190日の会期でしたから、ほとんどこの問題に関わっていたといっても過言ではありません。
 そもそも我々民主党が、大学改革論議をリードして来たこともあって、昨年春には、参議院で大学問題集中審議が行われ、昨年秋の臨時国会では、私立大学の学部学科新設・再編を許可制から届出制に緩和し、専門職大学院制度も創設するなどの学校教育法の改正が図られ、私立大学などの改革にはかなり弾みがつきました。そうした流れの総仕上げが国立大学改革でした。

 国際的にも、国内的にも評価の低い我が国の大学をより良いものにしていくためには、大学が自律し、大学の内外からの多角的な評価によって自己革新を不断に実現していくことが強く期待されます。ユニバーシティ・ガバナンスの確立・向上のために、大学それぞれに法人格を付与し、文部科学省から自立を目指すという国立大学法人化の趣旨には、行政法人ではなく教育・研究法人になるのだという前提を踏まえた上で、与野党の枠を超えて、前向きに対応すべきだとの思いから、私自身、党内の慎重派を説得しながら、法人化に賛意を示し、協力の立場を昨年からとってきました。
 昨年の臨時国会までの大学改革の流れは、一定程度評価できるものでしたから、今回の国立大学改革についても、我々はかなり期待していました。政府からも、国立大学に対して独立の法人格が付与され、より自律的で機動的な運営が確保されるようになりますとか、事前規制ではなく第三者評価導入による事後チェック方式に移行しますといった方針が説明されていましたので、私も、「知の時代」の主役である大学の発展にとって、有意義な第一歩となると期待しておりました。

 ところが、待ちに待った政府提出法案の法文を見て唖然としました。「羊頭狗肉」「換骨奪胎」とはまさにこのことでした。法案の趣旨説明で言われていることと、実際の法律の中身が全然違っていたのです。与党議員は、文部科学省が作成した、いいとこ取りの説明ペーパーでごまかせても、我々は、そうはいきません。法案の条文が明らかになったその日から、文部科学省の欺瞞を暴く、我々民主党の猛攻がはじまりました。
 本法案は、戦後50年来の大学政策を転換する基本法案であるにもかかわらず、その高邁な理念が、文部科学省の相変わらずの「お上意識・権限意識」によって、骨抜きにされそうになっていました。大学ごとに法人格は付与されるものの、自律的運営や事後チェック・第三者評価とは逆行し、霞ヶ関による大学自治への介入を推し進める内容となっていました。即ち、各大学の中期目標(教育研究内容も含む)は文部科学省が定め、財務省にまで協議することになっています。財務省は、毎年の予算編成で、予算査定をするわけですから、それに加えて、6年間にわたる中期目標や中期計画を事前に口出しするいわれは全くありません。また、予算は国会の審議に付されますが、計画は国会の関与できないところで、財務省の独断によって決まってしまいます。目標や計画が、予算制約により、はじめから抑制した内容になってしまいます。
 特に、研究については、文部官僚が、どうしてその目標を定めたり、計画を認可したりできるのでしょうか? こうした愚策によって、日本の研究者が、研究の本筋とは関係の薄い、お役所への報告書作成作業に翻弄され、研究へのエネルギーがどんどん削がれていきます。
 京都大学の佐和隆光教授は、衆議院参考人質疑で、「大学のソヴィエト化に他ならない」とおっしゃっておられましたが、まさに、その通りです。大学の研究現場がどんどん重たい空気になっていき、創造性がどんどん削がれていくことが大変心配です。
 多くの見識ある新聞は、私の説を支持し、文部科学省支配、文部省統制の懸念に警鐘を発してくれましたが、一部には国立大学だから文部科学省の関与は当然だという論調がありました。しかし、これは間違っています。我々も予算上の観点から霞ヶ関が査定することは是認しています。しかし、教育・研究内容について、明確に文部科学省が介入できる法律の条文の書き方になっているから、その点をきちんと除外・整理しろと主張しているのです。目標を国が作らないと国の責任が果たせないというのもおかしい。国の責任は、大学における自由闊達で創造的な研究・教育活動を支援することであって、そのための予算・環境を整備することです。目標・計画と評価によって、大学の活動を縛ることではありません。予算が適正に使われるようにチェックをすることで足るはずです。これは、私学助成金とて同じです。
 また、理事の数や経営協議会の人員構成比など各大学に任せればいいことまで、仔細に法律で縛っています。例えば、理事の数が、九州大学は8人、東京大学は7人と法定されていますが、そこにどんな合理的根拠があるのでしょうか? こうしたことは、理事は10人以内と規定しておいて、大学側の自主判断に委ねればいいと思います。まさに、箸の上げ下ろしまで文部科学省が指図する法律になっていました。
 表現を変えると、近年教育分野の規制緩和が進む中、文部科学省が虎の子である国立大学への支配だけは死守したいとの下心がみえみえの法案となっていました。文部科学省が大学を指導することによって、本当に大学がよくなるのでしょうか? なぜ、大学現場関係者の自主性・自発性と、それを取り巻く内外の知的関係者からの評価によるガバナビリティの向上を図るという考え方をとれないのか? 役人万能主義を捨てられない時代錯誤の法律である点を私はきびしく指摘しました。びっくりしたのは、そんな時代錯誤な考え方を支持・追従・容認する知識人が、日本には案外多いことでした。
 また、行政法人ではなく、教育・研究法人を目指すというから、我々は法人化に賛意を示していたのに、恐らく総務省や財務省の横槍に文部科学省が屈してしまったのだろうと思いますが、法律条文を見てみると独立行政法人通則法が準用され、省庁による管理・監督権限は一段と強化、さらにはお目付け役として、監事が文部省からの天下りで送り込まれることになります。
 さらに第三者評価導入といいながら、評価主体は、文部科学省の下部組織である国立大学法人評価委員会で、文部科学省から独立した純然たる第三者評価機関が如何に立ち上げられるのか全く明らかになっていません。研究評価は、その道の専門家による、ピア・レビューを主とするべきです。教育評価も、人材を受け入れる側からの評価や、学生側からの評価などもあってしかるべきです。

 そもそも戦後の大学政策の歴史は、憲法で保障されている学問・教育の自由を実現するために、先人たちが血のにじむ努力を傾注してきた歴史でもあります。大学の多様化・個性化・自律化が叫ばれている今の時代に、なぜ、半世紀の積み重ねを踏みにじり、霞ヶ関による研究・教育への介入法案を提出するのか理解できませんでしたし、そもそも、言論・表現の自由は民主主義の根幹ですが、表現する内容を創り上げるのが学問であり、言論する人材を育てるのが教育であるという意味において、民主主義の原点が霞ヶ関官僚によって脅かされつつあることに、私は、重大な懸念を抱きました。こうした問題法案に対して、私と内藤正光参議院議員が中心となって、民主党修正案をまとめました。国立大学の法人化の目的は、繰り返しますが、大学の自律と社会からの評価による自己革新であるべきです。我々は、各大学が、文部科学省支配から脱却し、それぞれのユニバーシティ・ガバナンス(大学の自己統治能力)を向上させ、独自のイニシアティブの下、学内外の英知を結集して創意工夫に満ちた自己改革を行ない、その努力と成果が、多様な複数の第三者評価機関によって多元的・多角的に評価され、さらに革新が促進され、不断に継続されていくことこそが望ましいと考え、そのことを忠実に条文化しました。3月中に修正案の骨子はあらあらまとめあげ、4月からは、水面下で与党との修正協議に臨みましたが、衆議院の審議段階では、世論の関心も低く、条文修正には至りませんでした。
 この修正案を胸に、5月29日に参議院文教科学委員会において、野党側のトップバッターとして、私が質疑に立ちました。私と遠山文部科学大臣との間で、80分間の真剣勝負をさせていただきました。全くのシナリオなしで、徹底したディベートをやりました。
 3月に民主党が修正案を発表し、国立大学法人法案に関する文部科学省の過剰関与を問題にした際には、わずかに朝日新聞が報ずるだけで、この法案の問題点を社会に伝えていくことの難しさを痛感していましたが、私としては、国会議員の本務に立ち返り、国会での論戦をきちんとやることによって活路が開けるだろうと信じて質疑に臨みました。傍聴席は満員。櫻井よしこさんも傍聴に来られていて、その模様を週刊新潮の「日本ルネッサンス」というコラムで取り上げていただいたこともあって、ようやくマスコミの関心も高まり、朝日新聞の社説に続いて、日本経済新聞も社説で「大学改革に水を差す官僚支配」と題して取り上げ、いずれも文部科学省の過剰介入を懸念する私の主張と民主党の修正案を全面的に支持していただきました。今国会の名場面集というのがあれば、スズカン VS 遠山文部大臣の論戦は、その一つになったよと、大学問題の権威でいらっしゃる野田一夫多摩大学名誉学長(前 宮城県立大学学長)から、再三、お褒めの言葉もいただきましたし、多くの大学関係者から、私の討論の議事録を読んだ、ビデオで見たという激励のメイルを本当にたくさんいただきました。
 改めて、皆さんの代弁者として国会に送っていただいていることの意義と責任、そして、ひとつの真剣な質疑が、世論の流れを変える力を持っていることを痛感いたしました。
 その後、一連の報道を受けて、全国各地の国立大学関係者の認識もさらに高まり、多数の激励のメイルやファックスを、その後もいただきましたし、全国紙で法案反対意見広告も四回にわたって掲載されました。この法案の問題点が、より多くの方々に認識され、論戦が緊迫化したことによって、一挙に世論に火がつき、国会論戦は参議院段階に入ってにわかに活発化しました。私の論戦を受け、内藤議員、桜井議員、佐藤泰介理事にも続いていただきました。
 与党議員(河村文部科学副大臣も内心では)も、我々の審議を注視するなかで、法案の重大性に気付き、結果として、法案審議史上異例の23項目にわたる附帯決議を民主党方針に従い、与野党で決議することができました。これによって、文部科学省・財務省・総務省の過剰介入は禁止しておりますし、附帯決議の遵守状況を含めて、国立大学法人化の進捗状況を今後も国会で監視・見守っていくことも決議されました。法案執行上の「実」はおおむね確保できたものと思っています。しかし、附帯決議というのは、法律条文そのものに比べると拘束力が弱いものです。今回の法案審議に携わった遠山文部科学大臣はじめ文部科学省の現幹部が在籍している間は守られるでしょうが、時間の経過とともに風化してしまう危険性があります。我々としては、法律条文を修正することによって、「実」のみならず「名」も取りたかったのですが、「『実』はいくらでも譲歩するから修文だけは勘弁してくれ」という『名』『面子』にこだわる与党の反対にあって、条文修正は果たせませんでした。国立大学法人法の抜本改正は、我々が政権を奪ってからの宿題ということになりました。
 
 今回の法案審議を振り返って、日本の大学が、いろんな意味で低迷している現状を一刻も早く改善しなければならない大事な時期に、諸外国に全く例を見ない、百害あって一利なしの文部科学官僚の過剰介入法案が、堂々と提出されること自体に大いなる危機感を抱きます。法案の是非もさることながら、未だに、官僚万能主義に立脚せざるをえない頑迷固陋な組織に、これ以上、知的立国日本の戦略構築は任せてはいられないとの思いを強くしました。 文部科学省の中堅・若手官僚の名誉のために申し上げますが、彼ら・彼女らとて、政策現場で大学の将来について真剣に考え、様々な実態・事例についての調査を行い、関係者との意見交換を真面目に行っている官僚も少なくありません。そうした彼らも、内心では、官僚優位で大学の創造性を高められるような時代でないことに既に気が付いていて、個人的には民主党の基本方針に賛同してくれている中堅・若手も少なくありません。ただ問題は彼ら・彼女らが依然として少数派だということと、組織の空気というのがあって、なかなか本心を公式の場で表明するには相当の勇気がいる。場合によれば、自分の官僚人生を棒に振るリスクがあるなかで、本当の政策論争ができない。どうしても、組織防衛に走らざるを得ない状況があるということです。特に、官僚というのは、自分が任命された役職に極めて忠実に徹しきる能力の高い人間が、官僚として採用され昇進していきます。文部官僚は、文部科学事務官、文部科学技官として採用されます、そして、退官まで、生涯このアイデンティティのもとに仕事をしています。文部科学省という組織の一員であるという宿命を帯びた彼らが、文部科学省の組織防衛・拡大のために努力をせざるを得ないという構造にあります。それが文部科学省OB・OGの国立大学への天下り問題として、象徴的に現れるのです。真面目で優秀な人間であればあるほど、一市民としての立場、国家公務員としての立場、文部科学事務官・技官としての立場、いずれに忠誠を尽くしていったらいいのか? 大いに悩みながら仕事しています。市民の利益と、国家の利益、省の利益が、20年ほど前までは、概ね一致していました。しかし、今、20世紀に作られた器や制度が壊れているのです。壊れかけの器に留まらざるを得ない現代官僚の苦悩は、この3つの立場が、それぞれ全く別の方向を向いているところにあります。この矛盾こそ、日本型の縦割り官僚機構の制度疲労によって、引き起こされたものなのですが、この制度矛盾による最大の被害者が、国民の皆様であることは間違いありません。そして、実は、それに次ぐ被害者が、文部科学省をはじめとする各省庁の中堅・若手官僚かもしれません。そうした彼らの苦悩を取り除いてあげるのも政治の仕事だと思っています。現在、内閣府の官僚達は、比較的生き生きと仕事しています。細かい問題はあれど、日本の真の改革を使命として帯び、一部の勢力ではなく、国家・国民全体の利益に向かって仕事をしているからだと思います。 大学問題は、今国会で終わる話ではありません。20世紀前半までは武の時代、20世紀の後半は富の時代、そして、21世紀は知の時代になります。大学こそ知の時代の主役であるべきです。そうした時代認識や志や気概を持った人々が、もっと大学政策づくりに関わらなければなりません。こんな大事な問題を今まで官僚任せにしてきた政治家はもとより、大学人、経済人、マスコミなどすべての知識人にも責任があると思います。
 私も、6月6日には、新しくできた六本木アカデミーヒルズで行われた、大学問題を考えるパネルディスカッションに、学術会議議長で前東大総長の吉川先生、一橋大学の米倉教授らとともに、パネラーとして参加してきました。かつて政策づくりの現場に身を置き、かつ、自ら大学の教壇に立ち学生たちを指導してきた経験を有する唯一の国会議員として、幸いにも、市民の立場、教育者の立場、市民・国民の代弁者の立場、この三つのベクトルが完全に一致していて、何の苦悩なく、教育改革に取り組める幸せ者である私、鈴木 寛が、教育問題について果たさなければならない責任の重大さを改めて痛感しています。大学問題・教育問題は、私のライフワークとして取り組んでまいりますので、引き続きのご支援よろしくお願い申し上げます。

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